
・手隠しイベントの時って、皆しっかりと手で隠しているよね
だって、手隠しだからね。手隠しは全裸ではない、しかし、全裸イベントの時だって正直手で隠していた。銭湯とかサウナとかではエチケットとして股間を隠すけれど、手では隠さない。タオルだ。手隠しイベントでは何もくれないので、手で股間を隠さざるを得ない。というか、誰にも見えないように、しっかり隠している奴なんていない。だいたい、手を当てているに過ぎない。(ちなみに、俺は竿を握っている。)そして、ずっと隠したままだろうか?一連の動作を片手で股間を隠したままで行っているだろうか?手で常時隠すのって無理ではなかろうか。そして、手は当てているだけだろうか。揉んだり、握ってガシガシ動かしていても、手隠しなのだろうか。だいたい、こんな論法が通じるんだったら、世の中の露出狂は逮捕されないのではないか。ほぼ100%のゲイが思っているだろう、「全裸じゃん」。この、手で隠しているから全裸ではないという、一休さん的トンチめいた発想、世間一般的に、いや、警察の視点で通用しているのかどうかを考えたい。

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ハッテン場、手隠しイベントに行って摘発とかされるのが怖いから行きたくないという人も結構いる。この摘発、2011年10月29日に北新宿の「デストラクション」が、翌年2月には大阪で「タフ」が摘発されたことを指しているのだろう。いずれも同性愛者が公然と全裸でわいせつ行為を行う場所を提供したという、公然わいせつ幇助罪の容疑であった。ネット上にはいろいろな意見が溢れている。
・これは薬物事案を挙げるための別件逮捕だ。ハッテン場をなくすことが目的ではない。
・ガチムチ系の、基本「生」推奨の店だったから、HIV感染抑制のために捜査対象になったらしい。
・公然わいせつ罪は微罪だから、たいてい起訴されないので過剰な心配をする必要がない。
・警察が実績を上げたいからハッテン場周囲をパトロールして職務質問し、実績が乏しい月に恣意的に摘発している。
・誰にも迷惑をかけているわけではないのに、正義の名を借りて治安維持のために風俗を取り締まっている。
・違法と適法の間のグレーゾーン。警察が黙認しているのだろう。
これらは推測や噂の域を超えていない。それに手隠しなんてスタイルは東京だけで、大阪では見かけないのも不気味ではないだろうか?ここではこうした推測や噂が正しいかどうかも含めて検証していきたい。

別件逮捕というのは、本来の目的では証拠を挙げるのが難しいことから、別件逮捕で家宅捜索に入って本来の目的を果たすことであり、実際よくやられている。ただ、薬物事案が確かに目的だったかも知れないが、公然わいせつ幇助罪が消えるわけではない。だから平気なんだというのは答えになっていない。また、逮捕されたから有罪ではないというのは推定無罪の原則のことを言ってるのだろうか?起訴されなければ間違いなく無罪放免、けれど、ニュースって「逮捕」の段階で載るので、逮捕拘留されたけれど不起訴だったからシロなんです、で、ああそうですかとはならない。一日拘留されて説教されて帰されるくらいに思っているなら、ちょっと甘いのではないか。たいてい起訴されないという根拠はよく分からないが、犯罪白書を見る限りでは6割は起訴されている。起訴されれば、よっぽどのことがない限り有罪だ。ハッテン場の摘発が公然わいせつ「幇助」罪であったということに気づいているだろうか?場所を提供したと言う行為は公然わいせつの「幇助」にあたるということで逮捕されている。これは刑法でいう従犯であって、正犯ではない。刑法第63条に「従犯の刑は、正犯の刑を減軽する。」と書いてある。正犯としての公然わいせつ罪を適用されるのは、利用者だ。従犯が起訴されて正犯は不起訴なんてあるだろうか?起訴されない自信はどこからきているのだろうか?それに、薬物を挙げるのが目的だとしたら、現行犯で挙げるのは相当難しい。所持の方が簡単確実なのだから、わざわざハッテン場まで巻き添えにすることはない。

警察批判もある。一部の活動家が、「警察はあえてハッテン場の前に張り付いている」「二丁目に集まるゲイを、性的指向を理由に職質のターゲットにしている」と主張したり、石川大我参議院議員(比例東京)に至っては、新宿二丁目で「オレは2丁目を偉そうに歩き回る警察を撮るのが趣味なんだ」「オレは国会議員だぞ! ビビっただろう」と警官に向かって叫んだという記事("Asagei Biz" 2020.4.14)が出ているが、これはゲイの権利向上に果たしてプラスの効果をもたらしているのだろうか?ま、泥酔しての大虎ぶりを記事にされただけなんだろうけれど、基本的には法律に違反しているなら取り締まって当たり前で、警察が悪いことをしているわけではない。大体、警察が正義を作っているのではなくて、自然法というか万民法というか、誰にも適用されるルールに違反しているから取り締まっているので、警察批判は筋違い。性風俗は社会的法益というか、健全な性風俗・性秩序を守り維持していくため、ある一定のルールを設けなくてはいけないものだ。それが法治国家というものだ。ただ、職務質問というのは、普通は挙動不審等で何らかの犯罪を疑うから行われる(警職法2条1項)。ハッテン場に来る者を無差別に呼び止めて職務質問をしているのだとしたら、違法だ。所持品検査も応じる必要はない。ハッテン場に張り付いていることでハッテン場の営業を妨害しているなら、それもヤクザのやり口と何ら変わらない。俺が言っているのは、新宿二丁目にいる挙動不審者は、別に職務質問を受けても構わないのではということだ。新宿二丁目でなくとも同じことをしているのだから。ただ、俺はこんなにもハッテン場に行っているのに、職務質問なんてされたことがない。出勤するかの如く、堂々と行っているんでね。

警察が黙認しているから大丈夫だという意見もある。黙認の根拠がよく分からないが、おそらく賄賂ではないにせよ、何かしら働きかけていることだろうから、お目こぼしくらいはあるのだろうと思う。ただ、違法状態を黙認すると言うことは、法治国家ではあってはならないこと、露見したらリベートをもらって見て見ぬふりを決め込んでいるのかと警察の怠慢だと指弾されかねない。黙認ではなく、見て見ぬふりをしているか、機会を窺っているかくらいの感覚だと思う。ま、そんなことより、ハッテン場を利用している人が危惧しているのは、違法かどうかなんてどうでもよく、もし利用時にハッテン場が摘発をされた際に、利用している側が逮捕されるかどうかだと思う。ここでは利用者のモヤモヤとした不安を解消するために、グレーだからとか噂ではとかいう類の根拠のないことを考えず、まずは正面から公然わいせつ罪について、手隠しがどういう位置づけになるのかを考えてみたい。

まずはわいせつとは何か。辞書的にはスケベなイヤらしいもの、子どもには教育上見せてはならないアダルトなものという認識であろう。例えば、漫画で股間がモッコリしていた、競泳用パンツから陰毛がはみ出していた、こんな程度でもわいせつになるだろうし、上半身裸のマッチョな消防士のカレンダー、チンコの形をした巨大ディルドだってわいせつだろう。で、ギリシャ彫刻でちょっちょっと陰毛の生えた包茎チンコや馬のとてつもなくデカいチンコの写真、医学的に解剖されたチンコの図、産まれたばかりの赤ちゃんのチンコ、まりもっこりのキーホルダー、舌を絡ませるキス、このあたりはどうだろうか。わいせつは人間だけなのか、大人だけなのか、芸術性があればいいのか、医学や科学だったらいいのか。石膏で象った女性器は性的刺激を受けるほど明確に認識するのは困難だと認定された(東京高判平29.4.13)が、じゃあ勃起したチンコの石膏はどうか。子どもの勃起したチンコは?漫画のキャラクターは?肛門は?生殖器以外ならいいの?とわいせつというのはこれだっていうことがいえない。個人差があるからだ。男女でも、男の乳首は良くて、女の乳首はダメなのか、ケツは全然問題ないのか、勃起していてもパンツを履いていれば構わないのか、ニューハーフだったら胸は見せても良いのか、俺にはわいせつはこれだとは説明できない。

そもそも同性愛の扱いであるが、例えば、アメリカの刑務所では収容者の50%が同性愛を行っていて、「刑務所で経験した悪習を釈放後、社会に出てからも続ける者が多く、同性愛で再収容されることは少なくない。同性愛を性犯罪としている国では、刑務所が同性愛の悪習を育てる一つの場となっている」(Kikuta,2021)というように解釈されていて、日本は同性愛が「刑法上の」性犯罪ではないという認識だ。犯罪の類型としては、同性愛は性欲異常、そしてここでの手隠しというのは性器の露出なので性的行動の異常という扱いである。同性愛については、当たり前だけれども、「最近、社会問題になるほど増加しているが、13歳以上の者で同意があれば犯罪とならない」(Kikuta,同)。ここで、ハッテン場の手隠しは露出症(Exhibitionism)とか露出狂ではないという反論もあるだろう。露出症というのは、「多くの露出者は、異性が不本意ながらも陰部を見ることにより、性的満足を経験する。多くは精神薄弱者であるといわれているが、てんかん、酒精中毒、老年痴呆などの一症状としても見られる」(Kikuta,同)ということから、たいていのハッテン場利用者による手隠しは露出症ではないだろう。別に性器を見せることで性的満足を得てもいないし、不本意でもないし、まして何らかの疾患を抱えている訳でもない人が殆どだろうし、自分が露出症だとはまさか思ってもいないはずだ。ただ、公然わいせつ罪というのは、露出を取り締まるための法律だ。露出「症」だから捕まるのではない。そして、同性愛ということも加味して考えた方がいい。

刑法では「公然わいせつ罪」というものがある。しかし、わいせつという概念が曖昧であって、さらにどうしてわいせつが罪なのか、説明できるだろうか?これがピンとこないのは、このわいせつが罪だという概念自体がキリスト教価値観由来だからだ。宗教的犯罪という概念が世俗化されてわいせつという概念が生まれた。江戸時代、わいせつは罪だっただろうか?公娼私娼が禁止され、赤線青線がなくなったのは戦後のことだ。同性愛は異常性欲で、精神病院に入れられて電気ショック治療を受けた。皆、外からやって来た、比較的新しい価値観だ。わいせつは社会害悪なのか、秩序を紊乱するものなのか、青少年に悪影響を与えるのか。具体的に言えば、例えば全裸の男の写真集を売ったらレ●プ犯が増えるのか、未婚の母が増えるのか、社会全体が堕落頽廃することで経済が停滞するのか、無法地帯になって治安が悪化するのか。風紀が乱れるって何なのか、社会にどういった害悪が生まれるのか、その関連性が説明されていないので、俺はイマイチ、ハッテン場に「公然わいせつ罪」が適用されたことに納得できていない。なんせ被害者がいない。刑法の原則に、「被害なければ刑罰なし」というものがある。また、憲法第13条で個人の自由が保障されている。この摘発は、「明らかに本来個人の自由に委ねられるべき領域と、法律を持って規制すべき領域との境界線を踏み越える」ものであって、「本来最小限の道徳であるべき法律が、個人の自由に委ねられるべき領域に干渉」(東京高判平4.7.13)したものではないかと思っている。

例えば、バンコクではストリップショーがあって舞台で本番もやる。けれど、見ている側はオナニーするわけでもないし、勃起さえしていない。ハッテン場だってそうで、全裸で歩いているのを見たところで勃起なんかしない。タイプではない人の性行為を、見たくもないんだけれど、見たところで勃起なんてしない。だけどわいせつなんだろう。この、性的に興奮を感じないのにわいせつって言われるところが疑問だ。性的興奮で言えばフェチズムもある。鞭で打たれることに喜びを感じ、目隠しされて「公衆便所」とカラダに落書きされることで興奮し、靴下の蒸れた臭いに恍惚する、これは性的興奮を感じてもわいせつではないのだろう。それに、通常の健康な男だったら性的に興奮するのが当たり前で、なぜ興奮するかと言えばわいせつなことをしているからだ。皆していることなのに、罪になる場合とならない場合がある、これが「公然わいせつ罪」だ。

刑法では「保護法益」という言い方をするが、わいせつ罪というのはどうして罪になるのか。通説は、性秩序ないし健全な性風俗を乱すから「罪」だという。例えば、「性」を取り締まる法律というのは、売春防止法、風営法、関税法、児●福祉法、児●売春・児●ポルノ処罰法、青少年保護条例など枚挙に暇がない。ただ、「わいせつ」というものがどういうものか。例えば、ロングコートの中がスッポンポンの男が路上にいたとする。傍目からはロングコートを羽織っているのだから、わいぜつではない。人に見せたらわいせつだろうか。見たい人に見せるのもわいせつだ。だけれど、わいせつが罪ではない。「公然性」がなければ罪に問われない。路上で見たい人に見せたらどうか。路上は不特定多数に見られる可能性があるので、見たい人に見せていたんだと言っても、第三者が見ていたらダメだろう。で、全裸の人が全裸の人を見たら?第三者も全裸だったら?通説によれば、「健全な性風俗を乱す」からダメであろう。しかし、性欲を発散することで性犯罪を抑制する効果もあるということはないか、橋下徹元大阪市長が沖縄の在日米軍司令官に言った理論(2013.5.13)だが、一般的にはとんでも理論だ。けれど、性欲を抑制することが美徳とされるのは理解できるが、道徳論であって、法律で規制するようなことなのだろうか。神はすべてご存じとでもいいたいのだろうか?性欲を抑えたいんだったら去勢したらどうか?

また、わいせつというのは社会や時代によって時々刻々と変化していくものであり、価値観の多様化している今日で刑罰による道徳の強制が妥当なのかという少数説もある。ただ、実務では、陰毛は従来取り締まりの対象であったが、90年代初頭に警察の取り締まり方針が「ヘア解禁」に変更になって摘発されなくなった事例もある。また、国家による道徳の強制を排除する観点から、わいせつといった性的な意味を持つものや行為を見ても、それが成人の自由意志に基づく場合は害を受けることがないのだから、それを欲しない人の目に触れさせてその人の性的感情を害するならば処罰の対象にすべきという説もある。この場合の「公然と」というのは「不特定または多数人が意図せずとも認識してしまう状態においてという意味に解している。青少年については、欲す欲しないにかかわらず、過剰な性的信号によって性欲に関する自己コントロール能力が未発達であるから、将来のためにも遮断する必要があるだろう。欲しない自由というのは、不本意に性欲を刺激・興奮させられない自由であり、性欲に関する自己をコントロールする権利である。ハッテン場という形態はゲイ固有のカルチャーであって、股間を手で隠すというルールであるということを了承した上で入っている。わいせつではあるが、互いにそれを欲して入っているわけで、性的感情を害しているわけではなく、仮に害しているならば自由意志で退場できる。例えば、ストリップショーもハッテン場も、客の年齢確認をしているし、18禁のルールもある。不特定多数の青少年が見る機会もなければ、見たくないという成人も見る可能性がない。だからわいせつ罪は成立する余地がない。一見妥当なように思えるが、これも少数説だ。

面白いことに、公然とわいせつ行為をする(刑法第174条)よりも、わいせつ物を頒布したり、販売または販売目的の所持、公然陳列の方が刑が重い(刑法第175条)。例えば、自分でチンコを出してみせるより、他人がチンコを出した写真を見せる方が罪が重い。なぜかというと、チンコを出して見せる行為は「提供される情報が媒体に化体されず、その場限りで消えていく」ので、「わいせつな情報自体には伝播可能な固定性がなく、性風俗の侵害の危険性」は比較すると、チンコを出して見せる行為の方が軽いからだ(横浜地川崎支判平12.7.6)。ストリップショーで踊り子が性器を露出させる(最判昭25.11.21)より、劇場でわいせつな映画を鑑賞させる(大判大15.6.19)方が罪が重い。わいせつな会話を録音して複数の客に聞かせた(東京地判昭30.10.31)方が、生でわいせつな会話を聞かせる方より刑は軽い。なので、チンコの画像データの方が本物のチンコよりも罪が重くなる。デジタル情報の、それこそ01010101の羅列が、本物のチンコよりも重い罪、そして自分のチンコより他人のチンコを見せる方が重い罪、ハッテン場だったら、チンコ丸出しのポスターの方が、実際チンコを出して立っている生身の人間よりも重い罪ということになる。伝播可能な固定性があるからね。生きてもなければ動きもしない、勃起もしない平面のチンコの方が罪深い。文章も、録音テープも、ハードディスク(東京地判平8.4.22)だって本物のチンコより罪が重い。本物のチンコよりもハードディスクの方がわいせつなのだ。あんな四角い箱に本物のチンコがいやらしさでは負けている。本物を超えたわいせつ、わいせつってそもそも本物を超える?わいせつという想像上のいやらしい概念が独り歩きをしている。

公然わいせつ罪とは、刑法第174条で、公然とわいせつな行為をした者は、6ヶ月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処すると書かれている。まず、わいせつについては最高裁判所の判例があり、いたずらに性欲を興奮または刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するもの(最判昭26.5.10)と定義されている。例えば、イギリスの作家ローレンスが書いた「チャタレー夫人の恋人」という作品に性的描写があるけれど、これも「わいせつ」と判断されている。「性行為の非公然性」(最大判昭32.3.13)の原則、つまりは他人に見えない状態で行われるものという大前提があり、文章であっても詳らかにするものではない。例えば、このブログは「これを読む者をして、あたかも眼前にこれらの行為が展開されているのを彷彿させ、これを目にするのと同様なほど扇情的な雰囲気を醸しだし、性的好奇心を挑発させるもの」(最判小昭55.11.28)だろうから、「普通人の性欲を著しく刺激興奮させ性的羞恥心を害するいやらしいものと評価」(前同)されることだろう。文字だけで書かれた文学作品でさえ、このような扱いなのである。

ただ、芸術的・思想的価値を有するものまでわいせつにしてしまうのは妥当ではなく、端的なポルノ本やポルノ雑誌等がその対象となるというのが通説である。だいたい、エロ小説をいちいち取り締まっているだろうか?だったらゲイ雑誌なんて出版禁止なのではないだろうか。警察が取り締まっているのはモザイクなし無修正のエロ動画とかエロ雑誌、エロ画像であって、わいせつと芸術的・思想的価値を比較衡量してわいせつが優越するから取り締まるとか、そんなことをいちいち警察は判断していないだろう。法律より実務の方が緩い。「見逃している」と言われる所以はここにある。また、わいせつな行為には、「被害者を著しく羞恥させ、被害者に不安を覚えさせるような卑猥な言動」(最決平20.11.10)も含まれる。だから、言葉責めもわいせつな行為だ。恥ずかしい言葉を言わされて困っている場合は、弁護士に相談してみるといいだろう。そんな事例を聞いたことがないが。

「普通人の正常な」性的羞恥心というのも引っかかるところではなかろうか。例えば、性的画像を見せて、この画像で興奮した人が過半数を超えたとか言った科学的根拠に基づくのだろうか。実際に心理学者が性的興奮度を測って証拠提出したが、採用されなかった。ここでいうわいせつというのは法概念である。道徳ではない。例えば、歩いている人を見て、あの男のチンコが欲しいと思ったら、道徳上は罪だが法には違背していない。しかし、道徳を法に持ち込んでしまっている感じがしないでもない。もっというと、裁判官がわいせつだと判断すればわいせつだ。ここでいう「普通人」というのは一般人ではなく裁判官である。しかし、それでは実際取り締まる警察官が困ってしまう。「普通人」である警察官が裁判官のクローン人間だったら問題ないだろうが、わいせつの概念は一様ではなく、そうすると厳しくなりがちだ。なので、性器が出ていたらダメ、モザイクで隠せば問題ないという、分かりやすい基準が登場した。性的羞恥心を害するとは、性器を見せることである。よく知らないが、普通は、性器を「見られた」側が恥ずかしいんじゃないかと思うが。チンコを覗き見するチカンの場合だったら、見られた側が性的羞恥心を普通は感じるのだろう。見られて恥ずかしいってなって興奮する人は、見る側見られた側、ともに性的羞恥心を感じることになるけれど、そういう場合はどうしたらいいのだろうか?

次に、公然とは、通説では不特定または多数人が認識しうる状態をいう。これも最高裁判所の判例があり、特定・少人数の前でわいせつな行為をした場合であっても、それが不特定・多数人を勧誘した結果であれば、公然だとしている。また、実際に認識される必要はなく、認識する可能性があれば「公然」である。特定少数の者にわいせつ行為を見せた場合であっても、これが不特定多数を勧誘した結果であれば「公然」である。また、特定少数に対してであっても、反復した、あるいは反復する意思があったときも「公然」である。カップル喫茶は見たくない被害者に無理に見せるような露出狂の行為ではないのだが、「営利目的で、見る人の性的満足のためにわいせつ行為を行う」ので、公然わいせつ幇助罪が適用されている(東京地判平8.3.28)。被害者が性的羞恥心を侵害される必要はなく、性器露出行為や性交行為が公然と行われれば公然わいせつ罪が適用される。最近でもハプニングバーが同罪で摘発されている。ハプニングバーは全裸に近い状態で、店内でたまたま出会った客同士が「ハプニング」によって店内でセックスに及ぶという、ハッテン場と形態が似ている施設である。摘発例を見ると、例えば覗き穴やマジックミラー越しに性行為を不特定多数が鑑賞できるような、大規模施設で「公然」と行われるわいせつ行為が摘発を受ける傾向にある。

ゲイのセックスは同性なので法律上は性交行為に当たらない、ゲイの売春は売春防止法の対象外だ、なんていうのも昔の話になりつつある。売春防止法は適用外でも、児●買春であれば違法になった。それに、例えば強●罪が強制性交等罪に変わったことで、男同士の同意なき肛門性交もフェラも強制性交等罪の対象となった。刑法上、ゲイが特別扱いされなくなってきている。戻って、なぜ売春防止法は適用外かというと、性交「等」、つまりはゲイのセックスは性交類似行為であって性交ではないということを刑法で改めて明示したからだ。ただ、別に刑法改正前の同意なき肛門性交は罪にならなかったわけではない。それまでは、強制わいせつ罪が適用されていた。このように、わいせつは異性間とも性行為とも書かれていないし、性的羞恥心と性的道義観念ということなので、かなり範囲が広い概念である。だけれど、異性間と同性間は当然「性的」観念は違う。これはゲイだと同性であっても異性と同じレベルの感覚と読み替えて構わないものか、ゲイの「普通人」について裁判所が判断可能なものなのか、その辺はなんとも言えないが、ゲイだからと基準を緩くするのは不適当なように思うし、俺はゲイの肛門性交も性交に入れるべきだと思うが、こういうところは活動家の方々はスルーするのだろうか。

ただ、今までのやり取りで不思議に思わないだろうか。例えば、銭湯やサウナなんて、前を隠せ、つまり手隠しをして中に入れ等という決まりはない。ゲイがいないかといえば、それは分からない。性器を曝しているところを不特定多数が見ている状況にあると言えるのではないか。目的が違うだろうと言われるのかもしれないが、公然わいせつ罪は不特定多数に対する性器露出行為で既に構成要件に該当する。男が男の性器を見て、性的羞恥心を害するのか?粗チンを見せているとしたら、羞恥心を害しているのは見せている側だし、性的に興奮することと羞恥心を覚えるというのは違うもののように思う。だったら、ゲイサウナは全然問題がないのか。建前ではミックスルームでセックスはしないことになっている。普通の個室型のハッテン場はどうか。風呂に入るから裸になるのは良くて、セックスするのに裸になるのは悪いことなのだろうか?風呂に入ってからセックスすれば良いのか?だったらシャワー浴びてから着替えるまでの間にセックスしているのだからいいのではないか。これって異性に対しての話では?と思うが、どうだろうか。バイみたいに、例えばゲイは性処理だけで恋愛対象は女性だという奴がハッテン場に来たら、別に罪にならないのか。また、公然わいせつ罪を創設した趣旨は露出狂を取り締まるのが目的なのであって、営業によって利益を得ているかではない。ハードで危険な行為を推奨しているならともかく、人気ハッテン場として荒利を稼いだからと言って摘発されるいわれはない。幇助容疑でのハッテン場摘発は、法の創設趣旨を混同しているのではないか。

では、逆手にとって、裁判官や検察官、警察官はハッテン場は利用していないのだろうか?特にゲイに人気の警察官、ハッテン場の中には警察官に割引をしているところもある。だいたいが、そんなに高尚な人たちばかりなのだろうか?言っていて、チクチクと自分の胸に突き刺さるようなことはないだろうか?LGBTの認知度の高まりから、例えばハッテン場を取り締まって、ゲイは汚い、不潔だ、神の摂理に反している、といったゲイフォビアが現れて、ゲイに対する世間の目は、以前のような厳しいものになるだろう。宝塚市議が、LGBTを支援するとエイズ感染の中心になるとトンデモコメントをして物議を醸したのは記憶に新しい。しかし、グローバルスタンダードでもあるダイバーシティを認め合う時代、そんな時代を今更ロシアのような価値観に戻すことができるだろうか?逆に、性的少数者に対してだけスポットを当てた迫害とも捉えかねない側面もあり、黙認とは言わないが、なかなか動きが取りにくいのが実情とも言える。ただ、これはハッテン場を取り締まっているのではない。公然わいせつを取り締まっている。ハッテン場を撲滅しようとしていると主張するのはちょっとお門違いというものではないか。

ハッテン場というのはゲイ固有のカルチャーだ、またはゲイ特有の習俗であって、ハッテン場の成り立ちと言うことを考慮に入れても、特例で認めてもいいのではないかという考え方もある。しかし、ハッテン場、その由来から来る名前が俺は存在意義を失っていると思っている。日常生活においてゲイ同士が会う機会が極めて少ないというのはもはや過去の話。今、GPSを用いたアプリで世界中のゲイの居場所が分かり、容易にコンタクトが取れる。出会うための場所という本来の意義は失われている。例えばカップル喫茶、ストリップ劇場、ハプニングバー、そうしたものが摘発対象であるならば、ハッテン場も十分、その対象になり得るだろう。それに、例えばこの前の刑法改正で、強●罪が強制性交罪に変わったが、これは単なる名称変更ではなく、性交の中に口腔性交や肛門性交も含まれるようになった。要するに、ゲイのセックスも性交として認識されるようになったのだ。ゲイだけ許されるなんてものは、ゲイだけ許されないものがないのと同じようになくなってきている。ゲイが法の枠外というのは過去の話になりつつある。まして、特権なぞない。