
昔、ダウンタウンの番組で美川憲一がゲストで出たとき、浜田が美川に「勃つことってあるんですか?」という、今のテレビでは考えられない質問をしたときの美川の「勃つときは勃つのよ!!!」といってキレ気味にフェードアウトしていったとき、ま、浜田ではなくとも思ったはずだ。「何に?」と。時代は変わり、テレビは女装で溢れるようになったが、ハッテン場では女装を見ることはない。むしろ、女装は遠ざけられている。これだけLGBTがどうこう言われているけれど、ハッテン場というのは、このブログを読んでいただいて察しが付いていると思うが、内在的差別を包含している。今回は、ハッテン場で掲げている「コンセプト」なるものを通して、ハッテン場のいう「男」とは何なのかを考えてみたい。

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では、ハッテン場で求められる「男」とはいったいなんだろうか。タマがあれば男かというと、そんなことはない。まあ、タマがないと話にならないし、一方は勃たなければ使い物にならない。で、女装、化粧、タマありニューハーフも男ではない。ここで、一つ。女装はいいのでは?という気もする。だって、脱ぐじゃん?けれど、見た目が「男」でなければはねられる。ま、ハッテン場でそもそも見たことないけれど。豊胸手術だと脱がないから分からないじゃん?となるけれど、それはそのとおりで、「おっぱい」のあるゲイは入ることはできる。なので、ノンケ狙いならまあいいけれど、ゲイ狙いだったらノンケよりもハードルが高いかもしれない。ま、化粧といっても日焼け止めとか化粧水程度なら構わないのだろう。少なくとも、内実はともかく、外観が「男」でなければならない。

「男らしい」とは何であろうか。義理堅くて人情深い、潔くて猛々しい、男も惚れてしまうような、まさに男の中の男、ではない。任侠でもヒーローでもない。ハッテン場の「男らしい」は性格や気質などは何の関係もない。ニヒルでも優柔不断でも豪放磊落でも、詐欺師でも料理が得意でも趣味が人形集めでもなんでもいい。男の中の男、というのではない。ヒーローとか情に厚いとか、芯がしっかりしているとか、そうしたことは求められていない。ただ、仕草がナヨナヨしている、オネエ言葉を使う、中性的な顔立ちをしているあたりは「男らしい」とは言えないだろう。昨今はジェンダーフリーが叫ばれ、女人禁制は理由が問われる時代だけれども、ハッテン場では外見が「男」しか入ることができない。ハッテン場に入れないものは「男」ではない。はっきり言うと、性別が男であっても「男」として認められない。そして、男を見て欲情しなければ「男」ではない。理性より本能、ヒトより獣、発情のスイッチが入っていることが男の条件である。

女受けする、女にモテるのが男でもない。例えば、女にもてる男の条件として、優しい、清潔感がある、おしゃれ、イケメン、・・そんなものは求められていない。ハッテン場受けする男とは、少なくともハッテン場サイドが求めている男とは、ガツガツした積極性を持ち、性欲強めでタフでマッチョな、男性ホルモンむき出しで誰でもいさかいなく襲う、男臭のする漢、雄だ。男らしいのではない、発情した雄が求められている。雌は?雌もいる。ガツガツした積極性を持ち、性欲強めでタフでマッチョな、男性ホルモンむき出しで誰にでも関係なく抱かれる男臭のする漢、雌がね。なので、男にかわいらしさ、美しさは求められていない。求められているのは野郎であり、セクシーである。優しさより激しさ、香水より汗、脱毛より髭、透き通るような白い肌よりばっちり日焼けした浅黒い肌、細マッチョよりゴリゴリマッチョ、知性より野性、私服よりスーツ、制服、しょうゆやソース、塩よりイモゴリラ。ま、ハッテン場というのは腐女子がいうところのボーイズラブとはかけ離れていることがお分かりだろうか。

タチが男役、ウケが女役というのは間違っている、なんてことがLGBT入門書あたりに書かれている。タチがリードする方、ウケがリードされる方なんて紹介されるが、そんなにすっきり分けられるものだろうか。このあたりがゲイの凝り固まった「男」像に隠されているのだと思う。ゲイは、男が好きなので、自分も男でありつつも、より男っぽい男に憧れる、男が男を好きになるというのはそうした男っぽい男、男の中でもより男っぽい男を求める傾向にあるのではないか。ウケは女役、別に間違っていない。相対的に見たら女「役」だろう。ただ、女っぽい、中性的はモテないからハッテン場からは排除される。元々「男」が男らしさを求める、ということは極端な男、になっていくことは想像に難くない。これがハッテン場の男像になっていく。

20年前、フェミ男なるものが流行った。カラダのラインに沿ったピチピチの服を着る、中性的な男。その前はキムタクに代表されるサーファーのような小麦色の肌にロン毛、もっと前でもシブがき隊だって、西城秀樹だってジュリーだって、なんていう髪型か知らないが髪を伸ばしていた。今は韓流スターのような白くて髭剃りとは無縁のツルツルの肌・・りゅうちぇるやMattのようなジェンダーレス男子、正直、男の流行は、相当前から色黒髭のゴリゴリマッチョから離れている。ジェンダーレス男子、この響きにゲイに近いものを感じている人も多くいるのだろうが、ハッテン場で求められているのはそんな男ではない。では、中性的なゲイはいないのかといえばそんなこともない。ハッテン場では排除されるというだけのことだ。とすると、こう言えるのではないか。ハッテン場でモテる男というのは、世間的に見れば実は流行遅れでイケてはなく、西部劇とか戦後直後の映画にでも出てきそうな生きる化石のような男であって、少なくとも現代の女性からモテるはずはない、と。はっきり言って、ハッテン場の男は典型的なゲイ像、いや、ホモのイメージ、保毛尾田保毛男のようなイカホモから時計の針が動いていない。ハッテン場は時代の流れから取り残された異次元空間である。

保毛尾田保毛男は石橋貴明が「みなさんのおかげでした」で演じた一キャラクターで、この番組の最終回(2018年3月22日)で出てきてとんねるずの世間ズレを改めて世の中に曝け出したのだが、保毛尾田保毛男、よくできている。イカホモ系としての保毛尾田保毛男という観点で捉えると、まずガタイがしっかりしていて、ヒゲもあるし、無垢で無知で、どちらかというと若干知能も低い印象を受ける。ゲイにとって都合のいい男、後腐れなくヤリ捨てできる男像として、ハッテン場での回され役として最適だ。ゲイ向けのラブドール(いわゆるダッチワイフ)、昔は田舎から出てきたバカそうなガッチリ青年だったり、空手一筋で他のことは何も知りませんと言ったような、何も知らないのでいろいろ教えてくださいといった雰囲気が滲み出ているものばかりだった。保毛尾田保毛男とラブドール、ハッテン場に求められる男だ。都合のいい男、性のはけ口、グダグダ言わず従順で、言われたことを素直に実行する男、ヤリ捨てされても文句ひとつ言わないし、恋愛とか面倒くさいことを口にしない男、それが求められている。それを具現化したものが保毛尾田保毛男であって、ラブドールである。

ゲイ一般の「男」像とハッテン場の「男」像がズレていることが、ここまでくるとうすうす感づいてきたのではないか。ハッテン場が求めているのはということであって、ゲイ一般ではそんなことはない。そもそも、ハッテン場の「男」像が偏っているというのは、一つ抜け落ちているからだ。ハッテン場の「男」には少年愛という視点が欠けている。「美男子」「美形」「美少年」「美青年」、ゲイだって好きなのだが、ハッテン場には美男子という視点はない。世界史でゲイが初登場するのはギリシアではないか。古代ギリシアには、古典的ゲイの三要素がある。美・筋肉・軍だ。古代のゲイは、軍という男しかいない環境の中で、男の美しさに惚れて、逞しい筋肉に惚れて、秩序だった序列によって男を教え込まれた。もちろん、「周囲に女がいないので、女性器の代用として肛門を使う。」(鈴木智彦「激ヤバ地帯潜入記」p54)ことで、男しかいない極限状態の中で無理矢理教え込まれたという例も多いだろう。これはゲイではない、環境がそうさせただけだとか、タチはともかくウケは半強制的だったという主張もある。しかし、だからゲイではないとはならないだろう。ゲイというのは覚醒させられることだってある。しかし、あえて隠しているという感じがする。

「美」が欠け落ちた理由、これは何も知らない若者を守るといった教育的配慮ではない。性教育はこういう性の形態があるという紹介で会って、君はゲイだ、君はバイだといった分別を教えない。美を遠ざけたのは、美しさを鼻にかけて、ツンと澄まして高飛車な男、自己中心的でナルシストな男はいらないというメッセージだ。女っぽい男、室町・江戸自体あたりの将軍が寵愛した小姓、商人のパトロンとしての歌舞伎役者、陰間茶屋、そこに登場するのは決まって美少年。大人になりきらない不完全な男として、女役をさせられる。美少年好きはゲイではないのか。男しかいない環境で、抵抗しない受動的な存在である女役を強いられたのか。美少年にはそんなゲイからの強烈なアンチテーゼを感じる。その反動で、オヤジがいい、ガッチリという名のデブがいいと刷り込んでいった。極限の筋肉、ボディビルダーのような不自然なカラダがもてはやされ、大きい=良いという短絡的で単線的思考が刷り込まれる。男を選ぶゲイはいらない、男なら誰でもいいというゲイが欲しい。女の代替ではなく、男の中の男がゲイなんだと。

そう、「男」像はハッテン場が、もっというと雑誌を主導としたゲイ業界が、モテ筋はこういう男なんだぞとターゲット誘導をしている。我々、ゲイは洗脳されている。言い過ぎか。しかし、価値観を押し付けられている、創り上げられた「男」像崇拝の方向に持っていこうとしているくらいは言えるだろう。簡潔に言うと、淫乱ですぐにヤラせてくれるタフな男、いわば即ヤリ尻軽マッチョ、それがハッテン場の理想である「男」であって、恋や愛を語り、前戯やピロートークに時間をかけ、メールを交換し合うような「男」は求められていない。イッた瞬間から次の相手を探し、壊されて無造作に放置され、穴があれば即突っ込んで、硬さ大きさがフィットするかイメージする、それがハッテン場だ。相手をよく吟味して、その相手と一途に愛を確かめ合うようなセックスをすることは求められていない。しかし、本来はそうあるべきではないか。出会いがつながりに「発展」するからハッテン場なのではないか。だから我々ゲイは騙されていると言っている。アンコンシャス・バイアスだ。
ハッテン場では短髪が求められる。一般社会で短髪を求められるのは、学校の部活とか、飲食業とかくらいではないか。短髪が男らしいというのは、ステレオタイプで実に笑止千万だ。言いたいことはわかる。ロン毛で代表的なのはホストだ。髪に気を使っているような男は、女にモテたいから、つまり軟派のすることだということなんだろう。これは天に唾を吐いているようなもので、男にモテたいから短髪にするってことでもある。硬派なようで実は軟派だ。だから、ハッテン場にいるゲイは髪を染めたりウェーブをかけたりしないし、そもそも整髪料すらつけていない。つけるほど髪を伸ばしていないからね。没個性の統一行動、足並みをそろえて共同歩調、皆が皆、どこを向いても同じような髪形。バカじゃなかろうか?だったら皆が能面を被ったって同じだ。短髪は男、長髪は女、・・昭和というより戦後の香りがプンプンする。言うけど、短髪限定はダサい。くだらないとしか言いようがない。勝手に「男」を押し付けられているから、ゲイ全体がダサくなる。いつまで薔薇族のゲイを崇拝するつもりか。ハッテン場は、死の淵にあるイカニモ系を、無理から点滴で延命させているようなものだ。

ジェンダーフリーを主張するつもりは毛頭ない。だけれど、男とはこういうものである、とハッテン場が枠を決めてしまうのは、取捨選択の幅を狭めていることになるのではないだろうか。セミロングやロン毛のゲイなんて珍しくはない。モテないのだろうか?ゲイを隠すために、女にモテたいがためにやっているのだろうか?ゲイ受けしないのを知っていてやっているんだろうか?言うまでもないが、セミロングやロン毛でも、似合うならモテる。もう少し言うと、イモ系、ゴリラ系がセミロングやロン毛にしたところでモテない。イモ系、ゴリラ系は短髪だと決められてしまう。似合わないからだ。ロン毛が似合う、似合わないって何だろうか?あと、中性的はモテないのだろうか?女子受けする人はゲイには受けないのか?男性が好きな「男」と女性が好きな「男」は違うのか。だったら、ノンケに「男」にもし抱かれるとしたら誰に抱かれたいか聞いてみたらいい。「男」、好きな男はこっちで選ぶもので、ハッテン場サイドがあれこれ言うものではないはず。揃いも揃って短髪ばっかりのゲイって・・何度も言うけれど、ダサくない?